【 厚生労働大臣賞 】

奇跡を起こした就業体験
東京都  後藤里奈 34歳


 「どうしても、働きたいんです。」
 真剣な眼差しでそう訴える生徒を前に、私は思わずたじろいだ。
 
 教師になってまだ間もない頃、私は高校3年生のクラス担任になった。だがそのクラスは発達障害や不登校など、様々な悩みを抱える生徒が多く在籍しており、彼らの進路を決めることは、私の重大な責務のひとつだった。多くの生徒が推薦で専門学校への進学を目指すなか、一人だけ就職を強く希望する男子生徒がいた。何事にも真面目に取り組む良い生徒ではあったが、彼には自閉症とアスペルガー症候群という発達障害があった。知的に問題はなかったが、こだわりが強く対人関係を築くのが苦手だった。もちろんアルバイトの経験もない。私は「就職なら今でなくてもできるのだから、進学も視野に入れて考えてみては?」と何度か勧めたが、彼に就職以外の選択肢はないようだった。その後も面談を重ね、高校生が就職することの難しさ、社会で働くことがいかに大変で厳しいものか、時間をかけて伝えたが、彼の意志が変わることはなかった。
 「そこまで言うのなら…。」とついに根負けした私は、一緒に就職先を探し始めた。早速、進路担当の先生やハローワークに相談してみたものの、障がいのある生徒が就職した事例はなく、就職活動は前途多難に思えた。だが、求人の来ている企業に片っ端から問い合わせていたところ、あるパン工場が面接を受け入れてくれた。担当の方に事情を話すと、「就職希望者には短期間の就業体験をやっています。よかったら参加してみませんか。」と言ってくださった。働いた経験もなく、初対面の人とのコミュニケーションは特に苦手な彼が、初めての環境でやっていけるのだろうか…。不安はあったが、私は彼の強い意志を信じて送り出した。
 そして2週間後。結論から言うと、私の心配は杞憂に終わった。それどころか、彼はまるで生まれ変わったかのように成長して帰ってきた。登校するなり大きな声で挨拶し、2週間の報告をしてくれたのだ。それだけではない。すれ違う人全員に「お疲れ様です!」と頭を下げ、苦手な教科の授業にも意欲的に取り組むようになったのだ。それまで、自分の得意なことや好きなことにしか興味を示さなかった彼には考えられないことである。
 たった2週間のあいだで何が起こったのだろうか。いったい人は、短期間でここまで変われるものなのだろうか…。信じ難い気持ちで、私はお世話になった工場にお礼の電話をかけた。するとその工場長の方は、「お礼を言いたいのはこちらの方です。」と、彼の働きぶりを褒めてくださった。単純な作業や力仕事も嫌な顔ひとつせず一生懸命に行い、休憩時間になっても作業を止めようとしなかったそうだ。
 彼をここまで成長させたもの―。それはまさに「働く喜び」だったのだろう。仕事を通して得られる達成感、誰かの役に立ち、感謝される喜び。これはどんな仕事にも共通する、何物にも代え難い経験だ。私は、彼がこれほどまでに就職を望んだ理由が分かった気がした。彼が求めていたものは、守られた安心できる環境ではなく、人に認められ、必要とされているという実感だったのだ。そしてそれは、人間にとっての究極の幸せとも直結する。
 奇跡を目の当たりにした私は、改めて働くことの意義について考えさせられた。人は必ずしも、生活のためだけに働くわけではない。そこにやりがいを見出し、自分なりの信念を持てるからこそ、働き続けていけるのだ。私自身、当初は持っていたはずの働く喜びを忘れ、不平不満を募らせていたことが恥ずかしくなった。その後彼は同じパン工場に就職し、今も生き生きと働いている。
 そんな姿を思い浮かべ、教師の冥利を噛みしめられることが、今の私にとって何よりの喜びだ。

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