【佳作】

【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
家族のカタチ
神奈川県  ぺけぽん  29歳

「お父さん、今日は何時に帰ってくるの」

しかめ面して母親に尋ねるその言葉が、子供の頃の口癖だった。

父親は絵に描いたような仕事人間で、毎日当たり前に家にいる母親とは違い、たまにしか会えなかった。いつも仕事ばかりと不満を抱いていたが、会えた時の喜びは大きく、父親との思い出は意外と印象に残っている。表現は不適切かもしれないが、毎日食卓に出てくるご飯を母親とするならば、我慢して我慢してやっと飲めたビール。父親とはそんな存在だった。

そしていつしか私も親元を離れ、よき伴侶と出会い結婚した。少しすれば子供を授かるものだろうと当然のように思っていたが、その時はなかなか訪れなかった。夫婦で決断し、治療へと踏み込み、長い月日をかけてようやく授かることができた。文字通り、待望の子供だった。

それからというものの、我が家の生活は一変した。子育ては想像よりもはるかに過酷なもので、昼夜問わず泣き叫ぶ子供に悪戦苦闘し、落ち着いて休める時間はほとんどなかった。時間があれば眠らせてほしいというほどに睡眠不足となり、とても仕事をまともにできる状態ではなくなっていた。

そんなある日、妻と口論になった。仕事を終えて帰宅し、一服していた時のこと。寝ていた子供が突然泣き叫び起きてしまった。私は仕事での疲労から重い腰を即座に上げることができず、先に動いた妻にその場を一任していた。しばらくして寝静まった後、妻から話があった。

「疲れてるのは分かるけど、家に帰ってきたら子供のことをもっと見てほしい」

「ごめんね。できるだけ手伝うようにするよ」

「手伝う?…子育てって、二人でするものだよね?手伝うじゃなくて、一緒にするものじゃないの」

「もちろんそうだけど、仕事があるから」

「それは分かるけど。でも、家にいるときはもっと見てほしいよ。私は24時間、常に見てなきゃいけないんだよ」

妻の言葉を受けて、はっと考えさせられた瞬間だった。

私が仕事をしている間、妻も同様に子育てという仕事をしている。私の仕事には終わりがあるが、妻の仕事には終わりがない。「明日の仕事に響くから、少し休ませてくれ」は「明日の子育てに響くから、少し休ませてくれ」と同義だ。だが、実際は子育てに休みはないし、休むこともできない。手伝うという言葉が、いかに無責任で、妻の負担となっていたのかを考えさせられた。

もちろん、家族にはそれぞれ家族のカタチというものがある。現に私が子供の頃は、父親は仕事で母親は子育て、という形で成り立っていた。だが、我が家の求める形はそれとは少し違う。一生寄り添うと約束した妻と、奇跡的に授かった我が子との、日常的な団欒がたくさん欲しい。父親は特別な存在なのではなく、母親と同じく当たり前の存在であり、当たり前に両親が家にいる生活を築き上げていくことこそが、求める家族のカタチであった。

妻との一件があってから、私の中での過ごし方改革を行っている。仕事は定時退社を心掛け、家では

率先して子供の面倒を見る。そうすることで、日々の生活にも少しずつ変化が生まれてきた。職場では思いのほか育児に関する理解が得られ、何かとあれば「いいから帰りな」と声をかけてくれる人もいるほどだ。甘えてばかりではいけないが、それに随分と助けられている。また、家庭では家族間の距離がグッと縮まったように思う。頻繁に父子で散歩に出かけている姿を近所の人に見られ、「お仕事は何をされているんですか」と聞かれたほどだ。子供も成長し、最近では家に帰ると嬉しそうにハイハイして近づき迎え入れてくれるようにもなった。

いつか子供が大きくなり「お父さん今日は何時に帰ってくるの」と母親に尋ねるときが来るかもしれない。だが、その顔は憂いに満ちていて、そして当たり前のように食卓を囲む。そんな日常のワンシーンを、できるだけたくさん紡いであげたい。そのためにも、今日も一日、張り切って仕事に励んでいこう。

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