【佳作】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
だれも平等で、共に学び、共に成長する!
大分県  古岡孝信  75歳

これまで三十年間、高校の教員の仕事をしてきた。最初の赴任地が知恵の遅れた養護学校で、五年間働いた。

ここで、教育の原点ともいえる貴重な体験をさせてもらうことができた。言葉や黒板をつかった文字や知識を言っても、この子たちには理解してもらえない。自分の好き勝手な言動ばかりする。私は思いつく教材や知識の切り売りをやってみたが通用しない。

そこで、近くの公園へ散歩に連れ出してみた時のことである。子どもたちは桜の散っていく花びらに「ばい、ばい」と言いながら手を振っていたのである。また、ある時、図画の時間に、近くの田圃で農家の牛馬が働いている絵を描いてみることにした。子どもたちは、自分の目に入ったありのままの光景を、しかも、素直に描いていたのである。それを私は見て二度びっくりさせられた。

というのも、私だったらどうだろうか。恥ずかしいものや邪魔なものは描かないだろう。ところが、この子たちは目に入った泥だらけの牛馬の体、脚、目、性器など描いていたのである。これほど美しく、しかも力強い、迫力ある絵を観たのは初めてであった。

私はこの時、これまで学んだ教育の基本から覆された。ただ、知識の切り売りでは駄目だということを根底からひっくり返されたのである。私たちだったら桜の散っている花びらに手を振ったり、一生懸命に働いている牛馬の泥にまみれた性器をそのまま描いたりはしない。

この違いは何だろうか。答えは簡単だった。この子たちの心が純粋で、しかも素直である。ところが、私たちは少しばかりの知識や世間体があるばかりに、周りを気にして、平気で嘘をついたり、思いもしない御世辞を並べ立てたりする。この子たちは決して自分たちの心を偽ることはしない。思ったまま感じたままを、そのまま文章にしたり、絵に描いたりする。もっというならば喜怒哀楽を自分の感情のおもむくままに表現する。ところが、私たちは、平気で周りの者を裏切ったり、同僚に対して思いもしない御世辞を口にしたりする。この時ほど、子どもたちを教える立場の自分を恥ずかしく思ったことはなかった。

こうした様々なことを対比すると、全ての人はみんな平等だということを学ぶことが出来た。もし差があるとしたら、年齢、男女、身長の高低ぐらいだということである。ただ評価の基準が違うだけなのだ。たとえば知能や運動の面から評価すると、この子たちは確かに低いが、心の純真さや素直さなどから比較したら、比べものにならないほどプラス面が多い。ところが知識のある人たちは逆に心が汚れきっている。大差がある。これらをプラス、マイナスすると、限りなくみんな同じである。このことを、私は最初に赴任した学校で実体験をした。この体験は私にとって、三十年間教員生活をする中で、プラスこそなれマイナスになることは一度もなかった。それから定時制高校、実業高校、普通科高校でも働いた。この間、私の教員生活で得たことは、最初の養護学校で体験した「だれ人も平等で、共に学び、共に成長する!」という貴重な体験が、そのまま三十年間の教育生活に生かされ、しかも、これまで生かされた七十数年間の人生の中で、これほど生きた経験をさせられたことはなかった。

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