【入選】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
“教員”という仕事の未来
北海道  竹ヶ原康弘  43歳

小中高校の教員を育成する大学の非常勤講師になって今年で7年目になる。途中、本務であった中学・高校の教育現場を過労のために倒れてしまい退いたが、今こうしてまた後進のために働ける立場にいること自体は感謝している。一方、教育現場が良くならないことについては不安と不満がある。教育現場は未来に働く人材を育成するための大切な場所であると考えるからだ。自分の経験から思うに、現在の教員は児童生徒を育てること「以外」のことに振り回され過ぎている。自分の勤務していた学校では、授業に関係のない行事に関する諸々の書類を作成することから始まり、回収した様々なお金の計算・管理までしていたが、これらの業務は本当に授業を担当する教員がすべき業務なのだろうか。事務員を複数人配置し、彼らに任せるべき業務ではないか。教員は「教える」から教員なのである。児童生徒の顔を見る暇もないほどにパソコンや帳簿に向かうことが教員の仕事とは思えない。これらの業務をこなすために授業の質を下げる、あるいはミスが発生したために児童生徒と接する時間が削られるようでは、学校が教員によって「教育」が展開される場所ではなくなってしまう。事務員を増員して改善されるべき点であろう。

次に教員の拘束時間が長過ぎることも不安かつ不満だ。意欲ある教員はなんとか時間を捻出しているようだが、学校に拘束される時間が長過ぎることは、教員の質を下げると考える。その理由として、まず教員が自己を成長させるための時間を確保できないことがある。朝の7時に出勤し、教材の準備や教室の整備をして8時に打ち合わせ、9時から授業を開始し、15時に放課、その後に19時前後まで部活・会議・講習等をこなして翌日の教材準備をして21時頃帰宅。これで教員が自己を成長させる時間、具体的には勉強や研究・調査、あるいは研究会への参加といった時間を取ることは難しい。校内研修をいくら行おうと限度があるし、それが教員の更なる負担にもなってしまう。教員としての資質を高められなければ、「教育」の質は上がらない。場合によっては下がってしまう。「教育」の質を下げないためにも教員にもっと時間を与えるべきであろう。

次に、ゆとりがないが故に教員の心身が故障してしまい教育現場を離れる例が多いことがある。自分もその内の1人であるが、自分が発病した時期の同僚は3人ほどが過労から発病し退職してしまっている。先に書いたような1日に13〜14時間も働くような環境、更にいえば土日の休日返上も当たり前のような環境では体が休まらない。「病気になるな」という方が無理である。ある同僚は体調不良で病院に行ったところすぐに休みを取るべきと診断された。見かねた医者が学校にその旨を電話で伝えたところ、電話を切った後に管理職が「あの医者はなんだ。教員を休ませろとは何事だ」と激高したという。学校現場はこうした「非常識」が「常識」となった場と成り果てた。

そうした「異常」な場に懸命に教えた学生を教員として送ることに、講師とは言え一教員の身としては抵抗を覚える。しかし、少しでも優秀な学生を育て、教育現場に送らないことには教育現場が崩壊し、次世代、またその次の世代を担うべき児童生徒の充分な成長が望めない。「教育」は全ての勤労の根幹である。絶対に軽視してはならない。

こうした問題の解決には、とにかく「事務員の増員」「教員の拘束時間や業務の軽減」しかないのだが、現在の施策はそうした方向に向かっていないように見える。だが、病気で人生の希望の幾分の一かを奪われた元教員として、また、次世代の教員を育成している身として、すぐに改善して欲しいと強く思う。それが次世代・そのまた次世代の勤労を向上させると考えるからである。更には「教員になりたい」という意欲と資質のある学生が不安なく飛び込んで行ける魅力ある教育現場を作り出して欲しい。

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