【 努力賞 】
【 テーマ:多様な働き方への提言】
与えられた場で自分を生かす
栃木県  兼 子 啓 子 67歳

これは団塊の世代の物語である。私の父は都市銀行の行員であったので、三、四年ごとに転勤し、家族も父に付いていろんな都市を巡っていた。中学三年から高校三年までの四年間は、京都に住んだ。

 中学三年の社会の先生は、当時日本共産党京都支部長の夫人で、いつもおかっぱ頭に男装であった。また高校三年間のクラス担任は、いずれも女性でかつ独身の先生であった。こうして女傑のもとで学んだ四年間だったので、ごく自然に私も大人になったら働いて独立するのだと思うようになった。

 私は精神科医になりたくて、それを目標に大学を決め勉学に励んでいた。ところが母の猛反対に遭って、しぶしぶ薬学を専攻したのである。そのころ医者になるには医局員制度があって、無給医の期間を通過しなければならなかった。親が銀行員の分際で下に弟や妹が三人もおり、まして精神科の女医などどこからももらい手がなく、私がオールドミスになってしまうのは火を見るよりも明らかだから、子の平凡な幸せを願う親としては何としても許せない、というのだった。

 1968年京大に入学すると、全共闘(全学共闘会議)学生によって東大が封鎖されてしまい、京大も翌年の一月末には封鎖となった。機動隊によって封鎖が解かれるまでの十か月間、私は大学の休校のお陰で思想関係の本をひもとくことができた。また、子供のころから母がキリスト教系の団体に所属していたこともあり聖書が手元にあったので、それを真剣に学ぶようになり、キリスト教に入信した。

 すると、もっとキリスト教を学びたくなって、薬学から文学部に転部することになった。それは、ドイツの精神医学者カール・ヤスパースが、夫人がユダヤ人という理由でナチスの迫害に遭い暗い日々を送る中、アメリカ軍によってドイツが解放されると、戦後は宗教哲学に転向した生き方に、大いに影響されたからである。

 私は大学卒業後もキリスト教神学を学ぶ機会を得て上京し、プロテスタント系教会の神学研究所の所員となった。その間、夫がイギリスに赴任していたので合流することになり、イギリスのキリスト教会について学ぶこともできた。その後夫の赴任先のイスラエルやアメリカ、また私が所属するNGO団体の関係で、ポーランド、ハンガリー、セルビア共和国にも滞在する機会を得、ユダヤ=キリスト教の現場を肌で感じさせてもらえた。

 私の生き方は、私個人の願いを優先させたのではなく、夫の赴任先やNGO団体の希望で当事国に行き、与えられた場で自分の個性を生かせるよう精一杯努力してきた生き方である。その間に少しでも家計を支えることができるように、家庭教師や日本人学校補習授業校の教師もやってきた。イギリスで生まれた一人息子もいろんな国を通過して自分というものを見つめ、現在独立している。

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