【 努力賞 】
【 テーマ:多様な働き方への提言】
7ヶ月
北海道  KZ 45歳

突然娘が違う世界へ旅立ってから7カ月が経ちました。

昨年私は新聞記事でこのエッセイ募集のことを知り、自身のパート勤務での日々の喜びや実現したい夢を綴り張り切って応募しました。春から新社会人としてまだ仕事に不慣れだった20歳の娘にも内容を語り「お母さんがもし表彰されたら一緒に東京行ってくれる?ついでにどこ観光しようか?」などと冗談交じりで話していました。控えめに笑う娘の顔に生気が感じられないのを心配し始めたのは数カ月前からのことでした。

遠方の建築専門学校を卒業し、地元の企業に採用が決まって実家に帰ってくることになり家族全員喜んで娘の就職を祝いました。都会での一人暮らしも満喫し、結婚するまでは自宅から会社に通うと言っていた娘。小さい頃から人の気持ちを読むのがうまく、決して人に迷惑を掛けるようなことをしなかった子でした。出しゃばらず多くを語らず、でも人の輪の中にはすんなり溶け込んで仲間はずれ等とは無縁で、いつでも常に親に心配を掛けない事を望んでいるところがある子でもありました。

12月クリスマス間近のある日、いつものように夜「おやすみ〜」と就寝の挨拶をし、まさかそれが最後に交わす言葉になるとは夢にも思いませんでした。会社を密かに辞めて1カ月が経っていたということを知ったのは、行方不明になって警察に捜索願を出したと職場に連絡をした電話でのこと。6年ぶりの新入社員採用ということで春から一人奮闘していた娘。会社での不満を家族には一切言わず、よく頑張っているけれど日に日に精気が感じられない雰囲気にただならなさを感じた時にもっと母親である私が具体的な行動を起こしていれば娘を助けられたのかもと後悔の念が今毎日押し寄せています。退職勧告を受け入れ11月締め日に辞職していたそうで、それからの約1カ月毎日いつも通りの出勤スタイルで朝出かけて、いつも通りの時間に帰宅していました。亡くなる前の1ヶ月間、それまで何ら変わった様子を見せず平常を装っていた娘。再就職先をこの世でないところに決めてしまった娘。クビになったことを話して家族を悲しませたくないという思いが強すぎた故の突発的で極端な最終手段をとってしまったのでしょう。地元で仕事が決まった時の私たち家族の喜びが大きく、落胆させたくないというやさしい気持ちが娘のいなくなった部屋からひしひしと伝わってきました。突然の別れに呆然とし、夫婦ともにしばらく休みを取らせていただきましたが現在二人とも元のように働いています。働くということは時に苦労を伴いますが、日々喜びや感動があり長い年月をかけてそれを経験していくものだと思います。娘は急逝20歳、社会人になってまだたったの7カ月でした。そして今これを書いている7月現在、娘がこの世からいなくなって7カ月。今私が言いたいのは、働くすべての人へ命を大事にしてください、ということ。辛さを乗り越えることも大事だけれど、仕事をするのは生きていく手段のひとつであり、命があってこそのこと。あまりに業務が大変で継続することで自分が壊れるような仕事なら変えてもいい、命を投げ出すことだけは決してしないでください、と強く強く心から思います。

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