【 佳  作 】

【 テーマ:多様な働き方への提言】
仕事と故郷の癒し
埼玉県  唐柄シロウ  56歳

私が高校を卒業した40年前は、大学進学率が4割以下だった。小学校の同窓生は高卒で就職した者もいたし、専門学校へ行った者もいた。土建屋や写真店、漬物屋など親の仕事を継いだ者もいる。高卒や専門学校へ進学した者は、実家から通える地元企業へ就職した者が多かった。

そんな中で、私は成績優良なグループにいた。迷わず大学へ進学して、大学卒業後は大阪が本社の中堅食品メーカーに就職をし、五年して金融機関に転職をした。

だが、56歳の今になって、自分の将来について熟慮せず、ただ周りに流されていたと思うことがある。自分なりに努力をして、ノルマや目標に押しつぶされそうになりながらも頑張ってきた。しかし、自分が40歳くらいの頃から、メンタルな問題で職場を休んだり、仕事で周囲に迷惑をかけるような者が周囲で目立つようになった。メンタルヘルスの問題は世間でも関心ごとになっていて、当時、人事部門だった私は、メンタルヘルスの問題についての研修会等へも参加した。その時の講師の精神科医によると、サラリーマンの百人に一人がメンタルヘルスの疾患を発症しているという。その原因は様々だが、人間関係の悩みが大きな要因だという。

「悩みを抱え続けないこと。運動や自然とのふれあいが大切です」

精神科医は、そのようなことを話した。確かに、自分は鬱だと宣言でもしない限り、会社勤めのストレスの原因を取り除くことは難しい。悩みを忘れる時間を作ることが治療になるし、予防にもなるということだ。私の場合なら、休みの日に実家の稲作の手伝いをしたり、氏神神社の祭や、盆踊りなどの行事に参加したりして体を動かし、自然とふれあっていた。他のほとんどのサラリーマンもそうだろう。海や山へ行楽に行って疲れるより、実家にある自然に親しむ方がずっと気持ちが癒される。

ところが、癒しとなる故郷の自然や地域行事などの伝統を守ってきたのは誰なのかと考えてみると、とても不公平なことに気付く。故郷の自然と伝統を守ってきたのは、家の仕事を継いだり、大都市の大学へは行かずに地元の会社へ就職した者たちだ。全国区の大企業と比べると、給料や所得は低い。そのうえ、彼らは故郷の自然と伝統を守る他にも、消防団や自主防災組織に所属して防災の面からも故郷を守ってきた。大企業に勤めるサラリーマンは同僚やライバルと切磋琢磨して高額な給料を獲得する半面、かなり高い確率でメンタルヘルスの問題を抱えている。それを癒すために故郷の自然や伝統に頼っているわけだが、それは故郷に残った幼馴染たちが守ってきたものだ。彼らのボランティア精神によって、快く帰省する我々を受け入れてくれている。

高額所得者が、それほど所得の多くない者のボランティアにお世話になっている。これは、おかしくてアンバランスだ。しかし、経済的な物差しで見た場合はアンバランスな状況も、他の物差しで見れば納得できる。心の豊かさという物差しで見た場合、豊かな物が貧しい者へ手を差し伸べるいたって普通のボランティア活動だ。

物心両面、色んな物差しをあててみて、自分の将来を広い視野で思い描いてみる。若かった私はそれができなかった。未熟なりに考えぬくことすらもしなかった。

今、私は金融機関を辞め、留学生の教育に携わっている。いつかは教育の仕事に就きたいと働きながら大学院を修了していた。しかし、数年後は故郷に帰り実家の農業をやるつもりだ。毎年赤字で、父親は年間30万円を年金から補填している山間地の稲作農業だ。私が継いだところで、経済的には黒字にはならないだろう。しかし、かけがえのない故郷の自然と伝統を守るために、やらなきゃいけない。ずっと故郷を守ってきた幼馴染たちに混ざって、やらなきゃいけない。56歳の今になって、そう考えている。

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