【 努力賞 】
【テーマ:仕事・職場・転職から学んだこと】
労働を厭わない
愛媛県 石鎚晴 61歳

昭和51(1976)年に大学を卒業した私は、その3年前に起きた第一次オイルショックの影響により、就職氷河期の真っただ中にいた。自身の勉強不足も多分に影響しているが、どこからも内定をもらえないまま卒業した。その直後、大病も患い結局就職できなかった。

12年後、「40歳まで応募可」と記されたマスコミ関係の求人広告を見つけ挑戦したところ、幸運にも合格した。私以外の合格者は全員新卒者だった。生活情報誌の編集部員として、取材原稿の執筆を担当することになったが、新卒の同期生と比べると非常に覚えが悪かった。入社して1年ほどは、毎日帰宅後夕食を済ませてから寝るまでの3〜4時間、悪戦苦闘しながら原稿を作成した。簡潔明瞭な文章を書こうと思っても、私の乏しい語彙ではなかなかうまく書けなかった。半年が過ぎたころ過労とストレスにより、生まれて初めてメニエール病になったが、自分が取材した原稿を他のスタッフが代わって書ける仕事ではないので、病状が安定した時に集中して執筆した。元来あまり体力がない私は、3〜4カ月周期で体調を崩したが、辞めれば次の働き口はないと思い死にもの狂いで頑張った。

入社当時、ある男性役員に「3年は頑張ってもらわないといけないよ」と言われた。その真意は「3年経ったら仕事にも慣れるからそれまでは辛抱しなさい」ということだったのだろうが、5年経っても一向に慣れず、能力のなさを実感するばかりだった。一生懸命やってるのに、どうしてできないのだろうと悩み続ける毎日だったが、辞めるわけにはいかなかった。入社当初、「することをしておかないと、ものは言えないからね」と偶然にもその男性役員と父に言われ、常にその言葉が頭の片隅にあった。そのため、オーバーワーク気味だと思いながらも指示された仕事はすべて引き受け、締め切り日までに必ず仕上げた。要領のいい人間もいたが、それができない性分だったので、歯を食い縛って懸命に働いた。

10年経ったころ、やっと仕事に慣れてきたのか、「これで何とかこれから先も仕事をやっていけそうだ」と思えるようになった。どんな仕事でも10年はやってみなければいけないと聞いていたが、まさしくその通りだった。少し慣れてきたとは言え、毎回、初めての取材テーマを取り上げ原稿を執筆する仕事なので、経験値の低さを痛感しながら試行錯誤する毎日に変わりはなかった。このころになると、自身の仕事はさらに一層増え多忙を極めていたが、後輩の指導もしなければならず非常にハードな日々だった。

月日の経つのは早くあっという間に40代も過ぎ、ちょうど入社20年目を迎えた54歳の時、管理職になった。重責に耐え得る実力が備わっているだろうかと不安になったが、やりがいを強く感じたのも事実だ。いざ管理職として仕事に携わってみると、自分と同じように部下が仕事をすると思ってはいけないことが分かった。何度自分で仕事をするほうが楽だと思ったことか! 管理職になって初めて若い時分に上司に反発した自身の言動を猛省したが、すでにみなさん退職されており、未だに謝罪できないでいる。

部下の原稿校正を担当した当初、「果たして自分にできるだろうか」と心配したが、いざやってみると思いのほかスムーズに運んだ。20年間、どんな仕事も断らずに引き受け、取り組んでいるうちに血肉となり力が付いていったのだろうか!? 恐らくそうに違いない。

自身の経験上、常々後輩に「労働を厭わないこと。仕事はやっただけ必ず身に付くから、投げ出さないでやり抜くこと」と話してきた。上司の不公平に反発した時代もあったが、鍛えていただいたおかげで定年まで勤め上げることができた。仕事と職場を通して学んだ「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」の精神を、今後の第二の人生にも生かしていければと思う。

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