【 佳 作 】

【テーマ:私が今の仕事を選んだ理由】
「S先生との出会い」
  ―苦手な教科を得意な教科に―
宮城県 水上靖夫 73歳

「M、今回頑張ったな。満点だったぞ」

廊下で後ろから声がかかった。振り返ると数学担当のS先生だった。私は小・中学生の頃学校が嫌いでよく休んだ。当時私が通学していた学校には、所謂「でもしか先生」がいて復員してきた人や軍人上がりの怖い先生がいた。直ぐ生徒を怒鳴ったり、殴ったりするので私は学校が嫌いだった。臆病者の私は後難を恐れて誰にも言えず、ただ不登校を繰り返しては親や周囲に心配をかけていた。度重なる欠席が崇って高校入学後は全ての教科が振るわず特に数学が酷く、それだけにS先生の言葉は嬉しく天にも登る思いだった。

県南地区屈指の進学校ゆえこれまで幾多の俊英を世に送り出す名門校でもあった。授業は難しかったが雰囲気が良く、あれ程毛嫌いした学校生活も日毎に楽しくなった。人間は誰でも認められ褒められれば嬉しい。新たな意欲も醸成されて来よう。最初苦手だった数学も卒業の頃には得意な科目に変容した。S先生は温厚で私の幼稚な質問にも丁寧に応えてくれ、難問でも易しく解く方法等、努力すれば報われる事の喜びも教えてくれた。ユーモアもあり生徒達の憧れの的だった。皆S先生に認められたくて一生懸命学習に励んだものである。心を入れ換えて勉学に励んだ甲斐があって、いつの聞にか私も先生に認められた一員になった気がして有頂天になった。

そんな矢先、先生は突然東京の大学に転出し私たちの前から去ってしまう。多感な世代なのか落胆と虚脱感からこれまでの努力が全て水泡に帰した感がした。人と人との出会い。日常生活の何気ない一瞬の出来事の様に見えても人生において、大きな影響をもたらす場合もある。一期一会とはこの事をさすのだろうか。私が大学を卒業するのと、まるで軌を一にするかの様にわが国は情報化時代に突入。仲間達は皆競って電算関連企業へとなだれ込んで行った。私に向いている仕事は一体何なのだろう。私は迷いに迷い何度も逡巡した。

爽やかに、そして強烈な印象を残して風の如く去り、私達に努力する事の大切さを教えてくれたわが恩師−。「教員になる」S先生のように生徒達から慕われる良き教師になろう。私が仕事に教職を選んだ最大の理由は、やはりS先生との出会いだった。あの時先生に認められたくて一年発起したからこそ立ち直れた。もしあの時の出会いが無かったら、今頃どんな人生を送っていただろうか。「今年度採用した新任の中に、M先生の教え子がいますよ」校長が言う。「彼はM先生に憧れて数学の教員を目指したそうです」更に「先生が育てた生徒が教員になり、その子がまた教員を育てる。言わば理想的な循環型社会ですね」とも。私はこの時面映ゆいやら嬉しいやら、身の置き所も無かったが内心では誇らしく思った。S先生は私に将来の指針を与えた人生の師。先生の薫陶を受けた私。

今度は私が「教師」を育てる番。それが師への最大の恩返し。幸いにも私は現在も母校の教壇に立っている。「循環型社会」は未来永劫継続されなければ意味がない。最後になってしまったが地元に戻って高校教師になったのにはもう一つの理由があった。何らの賛沢もせず、苦しい家計の中から学費を仕送りしてくれた両親に少しでも楽をさせてやりたかった。これまで色々心配かけ不孝した分、できるだけ近くに住み多少でも安心させてやりたい気持ちも心のどこかにあった。両親は私の帰郷を切望していた。あの時の二人の安堵した顔が、半世紀以上経った今でも目に浮かぶ。永い教員生活で全てが順調だった訳ではない。振り返って見ると苦悩も多々あった。

でもどんな仕事にだって一長一短はある。元より楽な仕事なんてこの世に存在する筈がない。大切なのは自分の選んだ仕事に自信と誇りを持ち続ける事だ。仕事を持てるのはやはり幸せである。仕事が有るのと無いのでは天と地の違いがある。私の選択は決して間違っていなかったと今も確信している。

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