【 努力賞 】
【テーマ:仕事・職場から学んだこと】
もう一度あの場所へ
香川県 橘漱太郎 23歳

私はつい1か月前に仕事を辞めた。新卒で小学校の教師として仕事を始めてまだ3か月しか経っていなかった。小学校の教師は私の幼いころからの夢で、必ず立派な教師になることを目指していた。両親は共に小学校の教師をしており、私もその姿を見て教師という職業の素晴らしさ、大変さの両方を理解しているつもりであった。しかし、その理解はあくまでも「つもり」でしかなかった。

4月、始業式で担任を任されることになった。ちゃんとやり切れるかどうかという不安があったが、それ以上に「やってやるぞ」というやる気に満ち溢れていた。失敗しても何度でも立ち上がることができるという自信がそのころの私の中にはあった。しかし、現実はそう甘くはない。簡単な事務手続きのミス、授業計画の遅れが毎日のように起こった。中でも子どもたちとの信頼関係を構築することがうまくできなかった。褒めようにもどのように褒めればよいかわからない。叱ろうにも叱り方がわからない。担任である私が右往左往している間に、子どもたちの心は離れていく。そういった不協和音が日に日に多くなるにつれて、クラスは崩壊していった。毎日のように誰かが悲しい思いをし、誰かが誰かを傷つけることが多くなった。私はそれを少しでも食い止めようとして管理職をはじめとする教師に助けを求めた。そのことで一時的に改善の傾向が見られたが、根本的な改善には至らなかった。他の教師は「長い目で見ていかないと上手くいかないよ」と励まして下さったが、追い詰められている私にとってはその言葉を受け入ることができなかった。

5月のGW終わりごろから体調にも異変が出始めた。睡眠時間が減り、食欲が減少し始めた。遂には教室へ入ることが怖くなってしまった。今にも倒れそうな顔で毎朝を迎える私を両親は心配してくれていた。そんな毎日が続いていた中、父が仕事を辞めたほうがいいのではないかと持ち掛けてきた。私は当初、辞めることは考えられなかった。今、ここで任された担任を投げ出すことはできないと強く思っていた。しかし、教室に入ることができない私がいることで子どもたちや教師たちに迷惑をかけているのは紛れもない事実である。私は悩んだ。辛くて、情けなくて涙が止まらなかった。私が悩んだ末、出した答えは教師を「辞める」ことであった。教師を辞めると子どもたちに伝えたとき、いつもは元気いっぱいで明るい子どもたちが目にいっぱいの涙を浮かべていた。私はできるだけ明るい表情でいることに努めていたが、心の中では涙が溢れていた。

教師を辞めた今、あのころの自分に何が足りなかったが見えるようになってきた。それは「力を抜く」ことである。若さに任せてただがむしゃらに「頑張る」だけでなく、力を抜き「癒し、耐える」ことが必要だったのだ。私は頑張り続ければ、必ず好機が訪れると思っていた。しかし、それが自分の首を絞める結果となってしまった。「力を抜く」ことで長く、客観的に自分を、仕事をとらえることができる。仕事を続けるために「力を抜く」ことは必要不可欠だったのである。

仕事は人によってもつ意味合いは違う。生活資金を得るため、生きがいのためと人によって「仕事」とはさまざまだ。しかし、仕事を一生せずに人は生きていくことはできない。私にとって、仕事は夢の実現である。夢を実現するためにも、長く仕事を続けたい。仕事を続けるためには、時に力を抜かなければならない。考え方を柔軟にしなければならない。あのとき「力を抜く」ことができなかった自分を変えて、もう一度あの教壇へ私は戻りたい。そして、あの涙は決して無駄ではなかったことをいつの日か証明したい。夢は今も続いている。

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