一般社団法人 日本勤労青少年団体協議会 名誉会長賞

【テーマ:世界と日本−海外の仕事から学んだこと】
幸せになるための選択
イギリス オックスフォード Puru 30歳

一週間で一番幸せな瞬間、それは月曜の夕方、所属するハンドボールチームの練習に向かうため、ジャージ姿で自転車をこいで体育館に向かう時だ。これまでの紆余曲折を思うと毎回、幸せをかみしめずにはいられない。

日本で大学を卒業し、念願かなってイギリスの大学院へ留学した。短い春休みには一時帰国して就職活動をし、希望通りの内定を得ることができた。

就職先は新聞社だ。私はあこがれの新聞記者になって、毎日働いた。日中はさまざまな取材活動で忙しく、職場へ帰って記事を書くのはいつも夕方から。夜になると原稿の確認、さらに取材。夕食をとる暇もなく職場にまた戻って雑務をこなし、仕事が終わって家に帰るのは夜中の2時ごろ。しかも夜中に火事や事故があれば起きて現場へかけつける。週末も休みが少なく、週に何度も、徒歩10分の自宅へ帰れないほど疲れ果てて会社で夜を明かすような状態が続いた。そんな中、留学中に出会ったイギリス人の夫と結婚をしたのだが、あまりに疲れ果てている私は家に帰って夫と顔を合わせても「話しかけないで、寝かせて」と怒鳴ることしかできず、新婚生活は理想とは程遠いものだった。

忙しい時期が続き、朝食が夜の10時というような生活が1ヶ月ほど続いた後、私はついに体を壊した。1週間ほど休んで仕事に復帰したが、その後すぐにうつ病とも診断され、毎日、死にたい死にたいとしか考えられなくなった。それでも休職はしたくなくて、半年ほど、時間を減らして勤務を続けていた。仕事自体は面白くて好きだったし、せっかく手に入れた仕事を失いたくなかった。

心配した世界中の友人から、たくさんのメールをもらった。どれも「働くために生きるんじゃない。生きるために働くんだよ」というメッセージが込められていた。夫にも同じことを言われた。「せっかく留学して、ヨーロッパの生き方を知っているのに」と。わかっているけど…。無理やり勤務を続けても私の体調は悪化する一方で、階段もあがれないくらい体力もなくなっていった。

ついに堪忍袋の緒が切れた夫が、離婚してイギリスに戻ると言った。私はついに決断した。離婚してまで続けたい仕事ではない。私にとって何が大事なのか、しっかり選んでやろうと。

これが3年前の話だ。その後すぐ会社を辞めてイギリスへ引越し、夫との穏やかな生活を始めた。数ヶ月は仕事をせずに心身の回復につとめ、その後別の業界の小さな会社で、フルタイムの正社員として働き始めた。平日朝9時から夕方5時半の勤務だ。忙しい時期には仕事が山積みになるが、優先順位を見極めてできる限りの仕事をこなし、定時に帰る。年に数回、しっかり長期の休みをとる。イギリスでは普通なのだが、勤務時間は日本で働いていた時の半分以下になった。でも給料も半分以下だ。私はこれをふざけて「セミリタイア生活」と呼んでいる。物事が日本のようにスムーズに運ばず困ることもあるが、首を絞めあう完璧主義ではなく、お互いが人間らしく生きられるよう尊重しあっている社会なのだと思う。

おかげでプライベートの時間がしっかり持てるようになったので、地元の大学のハンドボール部に入れてもらった。中学と高校以来、10年近いブランクがあったが、大好きなスポーツに熱中し、仲間と笑いあう時間が私をすっかり癒してくれた。だから平日の夕方にハンドボールの練習に向かうとき、この生活が愛しくて、幸せで、感謝の気持ちでいっぱいになるのだ。

ひとつだけ気がかりなことがあった。親に学費を出してもらって留学までしたのに、せっかくつかんだ仕事を2年弱で辞め、ごく普通の生活をしていること。収入もずいぶん減ったため、顔向けができない思いがあった。しかし今年の春に帰省したとき、両親は別れ際、私を抱きしめて「幸せそうで本当によかった。安心した」と言ってくれた。ありがとう。私は胸を張って仕事へ戻った。

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