【 努力賞 】
【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
今この時、私流の働き方
沖縄県 松井純子 58歳

グランドゴルフが大好きだった母が、80歳の時畳の上で転倒し、大腿部頚部骨折をしてしまい、入院生活となった。母の誕生日を病院仲間と祝った際、"情けない"と母は泣いた。

母の涙を見て、決意したことが3つあった。

来年は自宅で誕生日の祝いをする。グランドゴルフに復帰させる。そしてもう1つは、母がどのような状態になろうとも、最後まで手を離さない。

父亡き後、子育てを生甲斐にして来た母。これから先何が起きるか、起こった時にどういう対応をするかを考え介護の勉強をした。当時も今も伝統手織の織工である私は、時間を作ってスクーリング、実習をこなし訪問ヘルパー2級の資格を取得し現在に至る。

気丈な母は、リハビリも頑張りグランドゴルフに復帰した。誕生日を自宅で5回迎えた春先のこと、夕食を済ませ洗面をしていた時、再度倒れた。今回は脳梗塞だ。毎年住民健診も欠かさず受診し、特に異常のなかった優等生高齢者だった母が倒れてしまった。意識不明が続いたが、毎日話しかけ、民謡を聞かせ、体中のマッサージをして1ヶ月。「母ちゃん、1たす1は?」の問いかけにピースをした。次々と応えてくれる母に、夫・娘達・息子達と共に喜んだ。

要介護5、左半身不随のハンディを負ってしまったが、右手で字を書き、はしで大豆も挟み食事も出来る程に回復。歌もうたった。

老い先短い母を中心にして、家族が動いた。私の働き方も変えた。母がディサービスに通っている月・水・金の週3回、訪問ヘルパーの仕事、残りの日は、介護と機織りの内職。今までどおりの生活を心がげた、次男のバスケットボールの試合観戦、公民館行事の敬老会などへも車椅子で出かけた。近くの海を見にドライ ブ、ゆっくり語る父との思い出、戦争のこと、子ども達のこと。(いつまでも、続いてほしいなー、この時が)と思ったものだ。
「お前にばかり苦労かけてごめんね」
と泣いた母が、翌日は、アナタの名前は?と私に聞く。純子と言いますよと応えると、「私にも純子という娘がいます。名字は?」「松井と申します」「松井純子さん?私の娘と同姓同名ですね」

認知症、覚悟はしていたが隠れて泣いた。介護の勉強をしていたからこそ平常心で、母と向き合えた。そんな母が愛おしかった。毎日毎日が勝負、母に来年はないかも知れないので、年一度の石垣まつりにも連れ出した。野菜たっぷり雑炊を持参して。祭りのフィナーレ、カチャーシー(踊り)では、右手をくねらせて踊り、大きな口で笑った。夜空に上がる花火を見て、「きれいねー、今まで有難うね」

母は88才という長寿を生ききり、父の元へと旅立った。

私は今でも週3回訪問ヘルパーをしながら機織の内職を楽しく続けている。

戻る