【 佳 作 】

【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
掴み取った天職 農業
和歌山県 二株正 65歳

大阪市内で生まれ育った私は、何故か動植物への関心が強かった。ごく狭い土地に季節の草木を植えたり、植物・昆虫採集や天文観察と、一年中自然相手に遊ぶ少年であった。その頃より「将来はきっと、お百姓さんになるんだ」と心に決めていた様に思う。

青年期になり、大学への志望学部は当然の如く、農学部を目指して勉学に励んだ。一浪の末、入学しクラブは「海外移住研究会」(略・移住研)に入部した。その頃の学生気質には、海外雄飛やフロンティア、スピリットに情熱を傾ける者が多く、各大学には「移住研」があった。毎年、新天地を求めて、南米へ移住する各大学の先輩達を、横浜港大桟橋から壮行し「オレも必ず後から行きますから」と固く拳を握り締めたものだった。

三年生時、一ヶ年の農業研修生として、当時の西ドイツへ派遣される事になった。現地での生活も研修内容も充実したものであったが、日を追う毎に、日本への帰心が募るばかりで、骨を埋める覚悟の南米移住など、到底無理だと分かり、認識の甘さと意志の弱さにじくじたる思いだった。

帰国後復学し、翌年卒業した。当時の学生は引く手あまたの時代だったが、私の胸の奥底には、未だ、フロンティア精神や開拓魂などのおき火が、燻っていたのだろう。初志貫徹を遂げるべく、意を決して、国内での入植地探しを始めた。寒い地方でのひもじさより、温暖な地方が我慢しやすいと判断し、候補地として選んだのは和歌山県だった。しかし、当時の世相から尋ね歩く役場、農業試験所では変人扱いの様であった。

その後、土地を入手し畜産学専攻卒だったので、酪農を手掛け、雌仔牛三頭の堀立て小屋から出発した。だが、雌仔牛が搾乳出来るまで、二年先である。その間、山仕事の下草刈や土木作業などで、かろうじて食いつないだ。やがて、妻を迎え家庭もやや安定し、三男一女に恵まれた。酪農を始めて三十余年間、一日も休む事なく昼夜仕事に没頭する日々であった。そんな時、心の支えになり、士気を鼓舞してくれたのは、南米に移住された方々であった。「彼等の壮絶極まる艱難辛苦に比すれば、何と些細な事だろう」と決して労苦をいとわなかった。

平成19年には牛も60数頭に増え、県下有数の酪農家になっていた。しかし、その年に酪農経営にピリオドを打つ事になった。廃業後、春作にはシソ栽培、秋作には食用菜花栽培する耕種農家に転換した。

肉体的に過酷で、自然に依る影響が大である農業。過酷であるからこそ、私は農業が好きだ。手間を掛ければ、素直に答えてくれる牛や作物、夏の暑い盛りの草いきれ、朝露に濡れながら歩む畦畔の清清しさ、寒風すさぶ野良道の寂しさなど、四季が織り成す自然の様相は、農業を営む者にしか味わえない。五感に覚える快感を日々満喫できる全くぜい沢な仕事だと思う。

少年期より夢見て来た農業を、迷わず選択し成就できた事に非常な歓びと満足を感ずる。これも家族の協力と理解あっての事である。これからも健康に留意し、大地と対話しながら、我が天職である農業に従事して行きたいものだ。

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