【 佳 作 】

【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
曳家職人として生まれ変わる
高知県 岡本直也 53歳

私は53歳です。今となっては恥ずかしい限りですが、50歳まで自分の楽しいことをしながら、のんびりだらだらと四国・高知で暮らしていました。
転機となったのは2011年3月の東日本大震災です。
うちの家業は、曳家と云って、家をそのままレールに載せて移動させたり、地盤沈下で傾いた家を直す仕事なのですが、近年は補償制度の変更で、仕事の依頼も少なくなり廃業も考えていました。
ところが液状化で傾いた家を直すために、この技術が注目されました。
浦安市市長さまから直々にお電話いただいて3月末には、浦安市に入らせていただきました。
かつて家族でディズニーランド旅行で来た街は下水管の切断のためトイレが使えず、ヘドロと仮設トイレの臭いで様変わりしていました。
浦安市松崎市長は「岡本さんね。浦安は4月15日にライフラインが、復旧します。次は市民から、液状化で沈下した家をどう直せば良いですか?と云う問い合わせが入ります。そのときのアドバイザーとして対策本部に関わって欲しいんです」
浦安市対策本部には2日間いました。一旦、高知へ帰るためロビーを出る際に、知らない女性職員さんから「岡本さん。浦安を救ってください!」と大きな声をかけていただきました。
廃業を考えていた職業が世の中のためになる。
しかし地元を離れることで失うものもたくさんあります。
家族会議を開いて、当時、中学3年生だった長女と家内から「私たちは多額の寄付を出来るほど裕福で無いけど、パパが行くことで少しでも世の中のためになるのなら行ってみるべきで」と言われました。
更に、ある地元企業の東京支社長に相談すると、「岡本。誰でも1生に1回は世の中のために働かなんといかん時がある。今がその時よや」と背中を押してくださいました。

浦安市をはじめ習志野市、茨城県神栖市では主に一般住宅を。宮城県では塩釜市にある「笹かまぼこ」製造機の工場、石巻市では気仙大工が建てた大正時代の小学校校舎。埼玉県川越市では江戸時代から続く老舗うなぎ店の修復などを手掛けさせていただきました。
震災から3年が過ぎましたが、私は今も浦安市に住みながら全国を旅しています。

今はこの技術の正統な後継者育成を考えています。もちろん一職人では力の及ばないことも多々あります。
それでも、この数年間の経験から個人の生活も大事ですが、働くということは、世の中に貢献するということであるべきだ、と考えられるようなりました。
曳家職人の現役でいられるのは残り僅かですが、力一杯働いていきたいと思います。

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