【 佳 作 】

【テーマ:仕事から学んだこと】
それはお金を稼ぐためだけの世界ではないこと
大分県 岩堀 峰雄 66歳

我々団塊の世代は、貧しい少年時代を過ごした。私も例外ではなく、家は貧乏で子沢山であった。そして、小さい時から大学に行って一流企業に就職するよう親から何度も聞かされ、当然のようにその道に進んだ。

それで順風満帆だったのか。実はそうではない。特に若い頃は、生きていくために嫌な仕事も我慢し、辛い残業も耐えて辛抱する状況が続いた。入社して最初に配属された先は、労働組合の強い地方工場の総務部人事G。家族のように接してくれる現場作業員の仕事振りのチェックや、組合に対するスパイ活動のような仕事もあり、辛い日々であった。30代では経理財務の中間管理職として、帰宅が深夜に及ぶ日々がかなり続いた。当時は、生きるため仕方のないことと諦めていた。学生時代、尊敬する先輩から「仕事って時間の切り売りだ」と聞かされていたので、それを実感していた。父親の姿も見ていたので、我慢も当然と思った。父は優秀な成績にも拘わらず、家庭の事情で、小学校卒業と同時に、丁稚奉公・家業の和傘製造・生命保険のセールスの仕事と70年間も働き続けた。それも朝から晩まで、休日とてない日々であった。

しかし、私は恵まれていた。大企業だったため救われた。異動して、喜びを感じられる仕事に巡り合うことができたのだ。入社当時、人事の仕事に苦悩していた私は、子会社の経理財務担当になり、経理と言う自分に合った仕事に巡り会った。仕事なのに面白いとさえ感じた。数年して会社の資金繰りを任されると、今度は信頼されているという満足感に浸れた。この子会社での実績が認められ、親会社に復帰、大工場の経理課長に昇進した。しかし、販売子会社の経理と親会社(上場企業)の経理課長に要求される能力は雲泥の差があった。上司から「お前、入社当時良い上司に巡り会わなかったな」と言われる始末であった。考え方も知識も不足していた。決められた仕事を黙々とこなすのでなく「今、問題は何で、自分は何をなすべきか」を考えるのが管理職の仕事だと叱責されたのである。将来のために自己研鑽をしておくのも無論である。しかし、後で分かったことだが、ここに人生の面白さがある。辛さを経験すると次の喜びが大きくなり、奈落の底に落とされると、次には希望の丘が待っているのだ。この厳しい上司の仕込みのお陰で、苦悩もしたが、私は這い上がって、私のライフワークを見出し、居場所を見つけ、将来への活路を見出すことができたのである。

私はライフワークに「事務革新」を選んだ。不況が続いていたので、事務部門も効率化を急ぐ必要があると確信したからである。それを工場の全体活動にすべく提言し認められた。そうして、やり甲斐を感じながら仕事に励んだ。仕事は単にお金をもらうためだけではなかったのだ。心の持ちようで、或いは、固い信念で何かを目指そうとするだけで、目の前の仕事が生き甲斐に変わってくるのだ。

更に、私は仕事を通じて、人生の喜びとも言うべきものも味わった。先ほどの大工場から小規模な工場の上級管理職に昇進した時のことである。この小さな工場を盛り上げるべく、工場長・総務部長が提唱した目標管理・生き生き集団活動に上乗せする形で、私の「事務革新」を組み込む提案をし、了承され、いずれの事務局も私が担当することになった。私はこのことで、上司のお二人が栄転されることを願っていた。また、数人いた部下が嬉々として仕事に励むよう、アドバイスやアイデアを授けた。そうして2年ほど過ぎた。本社から来賓を迎えての発表会は、大いに盛り上がり、工場長も部長も大いに喜んでおられた。私は部下達が誇らしげに発表する姿を見て、何とも言えない感動をもらった。上司や部下のためと思ってやったことが自身に喜びとなって返ってきたのだ。

私は、幸運にも仕事からいろいろなことを学ぶことができたのである。

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