公益財団法人勤労青少年躍進会 理事長賞

【テーマ:私の背中を押してくれたあの一言】
「一生現役」
広島県 瀬越 睦彦 79歳

「なりふり構わずやらなきゃ仕事はとれんぞ」
よほど虫の居所が悪かったのか、私に向けられた役所の担当者の怒声が飛んだ。
平成13年(2001)年、68歳になっていた。それまで関わって来た「教育」の世界を完全にリタイアした。多くの人が異口同音に「長い間ご苦労さまでした。温泉巡りでもしてゆっくりと休んでください」と優しい言葉を掛けてくれた。

しかし、私は、超高齢社会を元気で生きていくためにも、全く休む気は無く、これまでとは、異質の仕事に挑戦してみたかった。学習塾を勧めてくれる人もいたが、教える世界からは、離れたかった。以前、高校の校長を定年後、タクシーの運転手になった人の話を新聞で読んだことがあるが、そんな能力は私には無い。ハローワークも訪れたが、これという仕事は見つからなかった。

そんな時、全く異質の世界であるA建設コンサルタントの社長から、うちの会社で働いてみないか、という話があった。仕事は営業ということだが、「名刺配り」である。教育の世界とは、180度異なる世界である。私に務まるだろうか。

社長のF氏は、私の最後の勤務校のPTA会長で共に新設校の土台作りに関わった仲である。「今までとは、異質の仕事に挑戦してみたい」という私の気持ちを理解してくれて、これまでの経験、実績、肩書きがゼロになることを知っての話であった。

「お世話になります。A建設です」と名刺を差し出す度に「あんただれ」と言わんばかりの視線が向けられる。それまで、名刺は、私にとって初対面の挨拶に交わす形式的なものでしかなかった。それが一転、一枚の名刺で会社を印象付けなければならない。緊張で指先が汗ばみ名刺が、手から離れない。毎日、数枚のハンカチが手放せなかった。

そんなある日、受けた屈辱的な言葉である。夕方、会社に帰ってからも冴えない表情の私を見て社長のF氏は言った。
「一年や二年で成果の出る訳がないじゃないですか。でも、名刺を配ることは、営業の原点ですからね」
それを聞いて、目から鱗が落ちた気持ちになることが出来た。そうだ、私は、名刺を通じて会社の名前を売るセールスマンなのだ、この一枚の名刺に全てを賭けよう、と自分へ言い聞かせた。

それからは、先方に着くと、トイレに入り鏡を見た。表情はどうか、汗をかいていないか、ネクタイは曲がっていないか、などなど。担当課の前に立つと、心を込めて丁寧に頭を下げた。徐々に相手の目、口元、表情などを見て、笑顔で名刺を渡すことが出来るようになった。

数年後のある日、帰社した私に、社長のF氏は、笑顔で「指名が入りましたよ」と伝えてくれた。「全くの素人が、自分の努力と誠意だけで、ここまで来たことは素晴らしい」とほめてくれた。私は、この日を生涯忘れないだろう。
お陰で、人生はどのように生きても「おもしろい」と思えるようになった。異質への挑戦に年齢制限はないのだ。私は「名刺セールスマン」として7年間の務めを果たした。
友人は「歳をとったせいか、人間がまるくなった」と言ってくれた。もし、そうであるなら、腰を低くすることの大切さを教えてくれた、この仕事のお陰である。

傘寿(80歳)を目前にして、最後のチャレンジになるであろう「被爆体験証言者」の研修に取り組んでいる。初年度の昨年は「戦時下の暮らし」、「原爆の開発から広島への投下まで」、「原爆被害の概要」そして「核兵器をめぐる世界情勢」がテーマであった。忘れかけていたことを思い出しながら必死になって聴講した。特に被爆者体験者(語り部)の講話は、自分の体験とオーバーラップして鳥肌が立った。これまで、心の奥に封印していた被爆の実相を語る勇気が湧いて来た。

先日、戦争と被爆によって振り回された少年時代を回想し、核兵器の廃絶と平和の尊さを訴えた一文を「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」へ納めさせていただいた。

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